墓場よりお送りいたします

ブン学、オン楽、映画のはなしなど

多文化共生はただの平和な夢ではない/『判決、ふたつの希望』

ジアド・ドゥエイリ監督『判決、ふたつの希望』を観た。原題は”The Insult”(侮辱)。原題の方がわかりやすいし重々しいし変えなくていいよ。よくあることだけど邦題をつけるときに変に捻ったがゆえに本質を外してしまっていて残念ですね。そして、「ふたつの希望」とあるけど何がふたつなのかわからなかった。


私の中でレバノンといえば、まずはファッションデザイナーZuhair Muradの存在が大きい。pinterestを始めたばかりのころ、やたらと心に刺さるビジューたっぷりのドレスを夢中になってピンした。レバノンでは一般の女性の服装の戒律もそれほど厳しくなく、レッドカーペットで頻繁に着られるようなドレスを生み出す世界的デザイナーが出てくるようなファッションの土壌があるようだ。逆にいうとそれぐらいぼんやりしたレバノン観しかない。

私はアラブ世界の映画にも興味を持っていて、特にイランのファルハディ監督の映画は『別離』に衝撃を受けてから『セールスマン』『ある過去の行方』と立て続けに観た。一方、レバノンを舞台とした映画は『灼熱の魂』しか観たことがない。あっちはあっちで内戦の残した傷を描いている骨太なドラマでとても好きなものの、遺言の謎解き要素が大きかった。


さて、『判決、ふたつの希望』の話をしたい。工事現場監督のヤーセルは不法就労パレスチナ難民だが、非常に仕事熱心で優秀な人物だった。ある日の現場で、集合住宅の一部屋に違法増築されたバルコニーの樋を補修するのに、部屋の持ち主トニーが水やりをしており、作業ができない。トニー宅の玄関をたずね、部屋の内側から補修をさせてくれるよう頼むが、トニーは冷たく拒否し、外から取り付けようとした樋を激怒して打ち壊した。それに対して「クソ野郎!」と暴言を吐いたヤーセルは、暴言に対する謝罪を求められても納得できなかった。一週間後、上司とともにトニーのもとへ謝罪に出向いたヤーセルは、トニーの支持するキリスト教系政党「レバノン軍団」の反パレスチナ的演説が流れる中、トニーに「謝罪もできないのか?”シャロンに抹殺されてればな!”」と挑発され、思わず彼を殴りつける。トニーは傷害事件だとして訴えを起こすが、第一審ではトニーの侮辱的発言が明らかにされないままヤーセルは無罪判決となり、トニーは控訴する。心労も重なってトニーの妻シリーンは早産となり、プライドのために裁判にばかり熱中して家族を蔑ろにしているとトニーを責める。一方裁判では、トニーの侮辱的発言が看過できないものと見なされる一方、トニーもまた虐殺の生き残りであったことが明かされ、互いの背景には深い傷があり、ヤーセルが難民だからといって無条件に同情されるべき立場ではないことが徐々に示される。そして傍聴者同士のいさかいが暴動に発展するなど、この二人の裁判は国中の注目を集めるようになる。全ての背景が語られ、出された判決は、「無罪」だった。


そもそもパレスチナ問題をあまり知らない上にレバノン情勢は全く不勉強なのでぜひ解説を聞きたいものである。判決が「どっちもどっち」で終わらず、異なる背景を持つ二人が関わる中で、互いの人間らしさが垣間見えるような人物造形は素晴らしい。異文化共生・多文化共生とは、ただ単に相手は相手、自分は自分として他者を理解できないもの、自分とは別の世界のものとして扱うものではない。また、単に近くに生きていればそこに簡単に平和が成立するとか、マジョリティに同化してしまえば良いというわけでもない。立場の違いによる認識の違い、軋轢や怒り、苦しみに真摯に対峙し、「その苦しみがそこにある」と認めることが共生のプロセスには不可欠である。裁判による解決というものは決して万能ではないが、やはり血の通った司法の目が必要であるということを思わされる映画だった。