墓場よりお送りいたします

ブン学、オン楽、映画のはなしなど

どうせ何もかも偽物だったんだから/『俺の歯の話』

バレリア・ルイセリ著『俺の歯の話』を読んだ。あらすじをダラダラ書いてもこの本の良さは伝わらないし、訳者あとがきでマツケン先生がかなりこの本の理解の助けになることを書いてくれているので私から言うことはない。


とにかく冒頭が最高なので引用したい。


「俺は世界一の競売人だが、あいにく控えめな性格なもので、誰もそのことは知らない。俺の名前はグスタボ・サンチェス・サンチェス、だが親しみを込めてだろう、人からはハイウェイって呼ばれてる。ラムを二杯飲めばジャニス・ジョプリンの物真似ができる。チャイニーズ・フォーチュン・クッキーの意味を読み解ける。クリストファー・コロンブスの有名な逸話みたいに卵をテーブルの上にまっすぐ立てられる。日本語で八まで数えられる。イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ。仰向けになって水に浮かぶことができる。」(『俺の歯の話』バレリア・ルイセリ,白水社,2019)


最高だ。あと、メキシコの話だからかなのか、文体はまともなのに行間にかすかな逆噴射惣一郎みを感じる。


作者あとがきで明かされるが、この物語はメキシコに実在するフメックス・ギャラリー(フメックスは、大手ジュースメーカー)の展覧会パンフレットに寄稿するために書かれたものである。さらに、フメックスの工場の従業員に何度かの連載形式で冊子として配布して、彼らの感想を聞きながら少しずつ物語を作っていったらしい。そこにはルイセリの「展覧会、工場労働者、工場の存在するエカテペックという片田舎の町を包括する物語を作る」という意図があった。


私たちは、広告などで「読者の行動を喚起すること」を意図されたストーリーを日々浴びるように受け取りかつ消費する一方、いち読者として文芸作品を読むときには、美術展示でいうところのホワイトキューブ的な「発注主や、その物語の消費環境からの断絶」を前提と考えているように思う。つまり、ある物語は、あらゆる利害関係や外部環境から独立して、作家の創作意欲以外の動機はなく「その物語を伝える」ために書かれたものだという前提で読んでいるのではないか。もちろん文学研究の場面では話は別である。


この『俺の歯の話』は「実はこの物語はこんなにローカルな話で、誕生にはこんな意図や過程があったんだ」ということを「作者あとがき」で明かし、別の角度からの読みを示した点で、独特な位置を占めていると思う。もちろん物語の中身そのもの、世界一の競売人・ハイウェイの末路もとびきり魅力的だ。ハイウェイが繰り出すいっそ魔術的な競売の口上の素晴らしさ。ルイセリは、物語がこの世に与えるインパクトを、ストーリーの中でも、この本をどのように現実世界に提示するかにおいても、あらためてまざまざと見せつけてくれた。


物語が全てのものに意味を、価値を与える。どうせ何もかも偽物だったとしても。