マーティン・スコセッシ『最後の誘惑』を鑑賞。ツッコミどころもあれば時代考証しっかりしてんなあーというところもあり両者渾然として、全体としても面白かったです。
ただ、ある程度4福音書の物語と、イエス=神?or人?という論争を頭に入れておいたほうがいいというか、キリスト教教理の素養がある人の方が楽しめるとは思う。
結構日本語レビューで「聖書は全然わからんがこういう風に描いてくれるととっつきやすかった」みたいなのがあるんですが、この作品のミソっていかに人口に膾炙してる福音物語からうまいことハズしてファンキーな事してるかっていうところにあるので、ここをスタート地点としてキリスト教にふれよう、というのは美味しいところ全部わからないままでちょっともったいない感じがします。
あらすじ
紀元前後のユダヤで、ある大工イエスはたびたび神の声の幻聴・引きつけ発作に苦しんでいた。処刑具である十字架を作ってはローマ軍に納品するイエス。ユダヤ独立強硬派のイスカリオテのユダからはローマに与する売国奴とバカにされ暴力をふるわれる(一応元から友達関係なのか?映画の描写ではよく分からない)。
ローマへの反逆者が刑場へしょっ引かれていくところに立ち会うイエス。
ローマ兵に交じって十字架を立てる手伝いをする。
反逆者の流した血がイエスの顔にビシャッとかかる。
幻聴に導かれて幼なじみのマグダラのマリアを訪ねるイエス。彼女は娼婦として働いていた。マリアはイエスを愛しており懇願するが、イエスは頑なに男女の関係になろうとしない。仕事(もちろん性行為)の一部始終をガン見するくせに、関係を迫られたら彼女を振り切り砂漠に断食しに行くイエス、本当に何しに来たん?商売の邪魔。
砂漠で断食していると高位聖職者たちの刺客として雇われたユダが殺しに来るも、(スーパーヤハウェパワーによって)なぜかイエスを斬ることができずコイツほんまにヤハウェの意を体現する奴かもしれん、ついていったろ、とイエスの旅の道連れになる。
砂漠で断食していると蛇が現れマグダラのマリアの声で誘惑する。もちろん断るイエス。次はライオンが権力を与えよう、と誘惑してくる。最後に炎が現れ「神の右の座につけてやる」と誘惑してくる。
捨て台詞を吐き炎は去っていく。
開眼したイエスは放浪の旅に出て、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたり、人々の病気を癒したり、神殿の両替商の机をひっくり返し(いわゆる「宮清め」エピソード)たりしていく。この辺はおなじみのエピソードを消化してるなーって感じで起伏に乏しい。
十字架が引き起こされイエスの苦悶も最高潮に達したその最中、小さい天使が現れ「あなたはメシアではない」と告げイエスを十字架から解放する。
マグダラのマリアと結婚してマリアは身ごもるが、出産を間近に控え、彼女は死んでしまう。悲嘆に暮れるイエス。
天使は「ラザロ、マルタの姉妹のマリアがいる」とイエスを別のマリアと結婚させる。
子どもも生まれ幸せな家庭を築くイエス。老年になり死の床にあるイエスをペテロ、ヨハネ、ユダが訪ねてくる。
ユダに糾弾されイエス。
天使に導かれて歩んだ人生は、悪魔の見せた誘惑のビジョンだったことに気付く。その途端、十字架刑に場面が戻り彼はメシアであることを受け入れ、メシアとして死んでいく。
感想
・冒頭、原作者ニコス・カザンスキの言葉が引用される。いわく、カザンスキは肉体的なものと精神的なものとの葛藤を若い頃から考察しつづけ、イエスの、人間的なるものと超人的なるものを併せ持つ二元性に強く興味を惹かれてきた。
次に続く注釈が面白い。
This film is not based upon the Gospels but upon this fictional exploration of the eternal spiritual conflict.
「この映画は聖書の福音書に基づくものではなく、この永遠なる魂の葛藤をフィクションとして探求しようとするものである」
本来、福音書自体も福音書記者の手によるフィクショナルな伝記物語、神話物語なのに、あえてこの映画の説明に"fictional"とつけることで、福音書が一種の「正史」であることを前提としていることが浮き彫りになっている。
4福音書同士でも矛盾があるのに、4福音書をよく吟味もしないでぼんやりした「福音書ミクスチャー正史」と異なる創作を排撃する人の多いことよ…悲しいぜ。
・大工さんとして十字架づくりにいそしむイエス。処刑具を作ることによって為政者ローマ帝国に加担しとる!このアホンダラ!とユダに罵られる。イエスもユダヤ独立派だからその設定は流石にナシなのでは…と思ったけどまあスルー可能な範囲
・でその作ってる十字架がT字に近いタイプで時代考証頑張ってるじゃん(このへんは岩波新約聖書の福音書担当の佐藤先生が書いてたような。ちな岩波佐藤訳は「十字架」じゃなくて「絞殺柱」と訳されててアツい想いを感じる)。クロスタイプの「十字架」が広まったのはひとえにその視覚的キャッチーさによるものらしい。やっぱ見た目って大事ですなあ〜。教会の屋根に乗ってるのが十字じゃないただの棒の「架」だったらカッコつかないもんね。
あと冒頭で十字架刑に処される反逆者に釘を打つ位置がちゃんと手首なのがニクい。
いわゆる聖痕は手のひらとして描かれることが多いけれど手首では体重を支えきれないので手首に釘を打つのが通常だそうです。
・『ファーアウェイソークロース』(ベルリン・天使の詩 の続編)で悪魔がめちゃくちゃ似合っていたウィレム・デフォーがイエス役なんだけど、演技力でなんとかなっとる。ただ正直あんたはデビル顔だわよ。蘇らせられるラザロのほうが思いっきりユダヤ人顔だった
・バプテスマのヨハネから洗礼を受けるシーンも空が割れて後光が差し鳩が飛んできたりしてなくリアリティがあって良かった。あとバプテスマのヨハネもイエスもイエスがメシアなのかどうか全然わかってなくてお互いにほんまにイエスがメシアなん?って真剣に質問してるのもいい。笑
・処刑シーン、腰布ない!?攻めてる!(でもたぶん時代考証的にはマッパで磔にされたはずだからなー)と思って正面から映すシーンに入ったらめっちゃ脚をお姉さん座りみたいに曲げてて、あ!そういう男性器の処理の仕方ね!新しい!!と思った。(笑)
・パウロに対するイエスからのツッコミはマジで本当にその通りすぎる!😂「お前俺に会ったこともねーだろ!お前の妄想だそりゃ!」ってなるやろ
・イエスを神ともメシアとも信じてなくて一人の革命家の青年として見てる立場からしたら、こういう家庭を作って子供を育てて大往生するっていう普通の幸せがある人生を送って欲しかったなあ〜って思う。
クリスチャンの人って一人の人間であるイエスに対して「死んでくれてありがとう」とか「セックスするなんてありえん」とかかなりヤバいこと言ってるの自覚できないんよね。
歴史上の、「名前を知ってる程度」の人だけれども、(というかしばしばクリスチャンって「イエスのことを愛してる」とすら口にするけれども、)一人の人間に対して「幸せであって欲しい」っていう気持ちはないんかな?もしその人を「愛してる」のならばなおさらね。「人間的幸せを欲したことも味わったこともなく、苦しんで死ぬのが当然だったはずだ」じゃなくてさ。
なんか、「信仰」とか「教理」の中にはそういう当たり前の人間らしさや、人を思いやる心を失わせる何かがあってそれがどうしても受け入れられないんよね。