墓場よりお送りいたします

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私たち自身の痛みから気を逸らすための装置としての「どこか遠いどこか」/『ムスリム女性に救援は必要か』

オリエンタリズム・ポストコロニアリズムを齧った者なら知的好奇心をめちゃくちゃ刺激される一冊。自分の中のオリエンタリズムを自覚させられます!!名作『私はヌジューム、10歳で離婚した』を観る目が変わります。


著者は、西欧の人々が普遍的な倫理コードとして考えている「世界人権宣言」のような権利概念は実は普遍的なものではなく、個別の社会状況、家族関係に置かれてそれぞれの信仰を持っている彼女らはベールを被った慎み深い「良きムスリム」として生きていくことを志向するかもしれないということを繰り返し述べます。


「第一に、私たちは差異の可能性を受け入れなければならないだろう。アフガニスタンの女性たちは「私たちのように」解放されなければならないのだろうか。それとも、ターリバーンから「解放」された後に、私たちがアフガニスタンの女性に望むものとは違うものを、彼女たちが望むかもしれないと認めることができるだろうか。第二に、私たちは他者を救うというレトリックに用心深くあらねばならない。なぜなら、そこには我々の態度を欺くものがあるからである。差異を認めることは、何が起きてもそれを「彼らの文化」がなすことだからと是認することではない。(中略)私たちは差異を認め、差異を尊敬するよう努力を重ねなければならない。差異を、異なる歴史の帰結であり、異なる状況における表現であり、違ったやり方で構造化された欲望の発露として理解する必要がある。私たちは女性への正義や権利を求めるべきではあるが、果たして、正義が違う意味で理解されたり、私たちが最善と思うものとは違った未来を、我々とは立場を異にする女性たちが求めるかもしれないということを認められるのか。彼らが異なる言語で個性を追い求める可能性について、我々は考える必要がある。」(アブー・ルゴド『ムスリム女性に救援は必要か』2018,書肆心水,p58)


西欧世界の住人がヴェール着用や名誉殺人、児童婚、女性器切除といった問題を考え、そしてまたそれに介入し「解決」し、「ムスリム女性の権利を向上」させようとする時、そうした問題の原因として「イスラームという宗教やそれに根ざした文化」にのみ責を負わせてしまっているとアブー=ルゴドは指摘します。西欧世界においてもDVや殺人、強姦といった問題が起こっているにもかかわらず、遠くのイスラーム世界では女性の人権が蹂躙されているけども私たちの住む西欧世界ではそういうことはない(ああよかった)、恵まれている私たちが手を差し伸べなければならないのだ、という考えにつながります。しかし実際にイスラーム諸国で生きる女性たちの苦しみや悩みは、単にイスラーム文化のみから来るものではありません。経済的困窮、政治、コミュニティや家族内での人間関係など複雑な要因が絡み合っていて、イスラームの価値観のみが原因となっていることの方が珍しいのです。


しかし、イスラーム社会の中の暴力とそこからの救出劇をドラマティックに描き、翻って西欧の新自由主義を称賛する「文化ポルノ」とも言うべき「三文ノンフィクション」によって流布したイスラームのイメージでは、暴力的なイスラーム文化と自由主義的な西欧文化が二項対立的なものとして演出されます。今や西欧諸国の人々が擁護しようとするムスリム女性の権利」という概念はどこか遠くの「イスラーム文化に抑圧された、アシッドアタックや名誉殺人といったセンセーショナルな暴力に苦しむ女性たち」を想定するものとなり、実際にムスリム社会(特に農村地域)で生きる女性たちの権利や志向からかけ離れたものに形を変えていきます。


著者の問いかけは、翻って、自分にとって「良きクリスチャンとして生きる」とは?ということを考えさせられるものでもありました。そもそもクリスチャンは日本社会の中で異邦人であって、「あるべきクリスチャンらしさ」と「良き人間らしさ」とはわりと衝突するところがあります。「良きフェミニストらしさ」にするともっと軋轢が生まれます。現代で聖書を信じるって、結構アクロバティックな解釈が必要なわけです。なんか聖職者と話していても、聖書のこの箇所のエッセンスはこうだ、だから私たちはこう受け取るべきた、という時、明らかに字面からは全く読み取れない時があります。それを理解しようとすると、神学の歴史上でどんな解釈がされてきてどのように変化してきたのかをちゃんと追うべきなのはわかってるんですが……


本書の冒頭で例示されているザイナブの話と同じように、日本人女性としての私を苦しめるこの抑圧は天皇イデオロギーから来るんだ、と誰かに言われたら「いやそれは違う」と言うと思います。しかし一方で、私は私の生きる個別具体的な日本のワーキングクラスという状況の中で、私の生きる文化において伝統的に良しとされる人間としての生き方を志向しません。三歩下がって……とか結婚して子供産んで……とか………。むしろ「よき日本人」「よき日本女性」としてだけは振る舞いたくないし、こういった女性への期待こそこのヘルジャパンではぶっ壊されるべきだと思っています。自分でもこのヘルジャパンのヘルさがどこからきているのかうまく言葉にできなくて解き明かすことはなおさらできないし、この男性たちの意識は本当になんなんだろう?と思います。ムスリム世界の中にも、イスラームという宗教やその文化を全否定したいような気持ちになる人もいると思いますし(実際に本書で「三文ノンフィクション」として挙げられていますが)、また本書で紹介されているように、あくまでムスリムの立場から、法・社会制度がイスラームが本来めざすべきシャリーアの精神にそぐわないと考えて現状を変えようとする人もいると思います。私は日本的価値観を全否定したい気持ちなので、著者が批判的に捉えているヒルシ・アリが「私は無神論者になって解放された」という自伝を書いてしまう気持ちが分かってしまいます。そしてより「解放」された生き方(そしてそれは西欧世界がムスリム女性に押し付けようとする「解放」に近いものになると思いますが)を探していきたいと願います。


今回めちゃくちゃ気付かされた二つのことをまとめます。


・私は「世界人権宣言」を新しい十戒、新しい聖書だと思って盲目的に信じようとしていた

・中東の国々の社会問題(特に女性の権利)を全てイスラム教に起因するものと思っていた

2点目、完全に著者が批判する思考回路に陥ってました。訳者あとがきでも指摘されてますが、日本社会全体がこういった西欧にある「ムスリム女性の抑圧/権利言説」を無批判に受け入れてると思います。

西欧は男女平等が進んでて日本は全然ダメなんだ、立ち遅れてるんだ、というのもある意味自らに向けたオリエンタリズムといえるのかもしれませんが、よく考えたらジェンダーギャップ指数が110位とか、「女は産む機械」とか、レイプ事件不起訴とか、賃金格差とかの確かな(かつクソな)現実でもあります。本書を読んで考えたことを、「いま・ここにいる・わたし」という個別具体的な状況の中でより納得できる生を送る手がかりにしていきたいと思います。