墓場よりお送りいたします

ブン学、オン楽、映画のはなしなど

空っぽな手の奇蹟だ/『田舎司祭の日記』

バルタザールのノリにいまいちハマりきれなかったのですが、こっちは好きだった。特にサントラ。


予告の時点ではてっきり司祭とシャンタルが禁断の恋に落ちて「聖職なのに村の娘に手を出しやがって」的なスキャンダルになって司祭の地位から追い落とされるみたいな話だと思ってたんですが全っっっっっっっったく違いました。でも予備知識ない人は絶対に勘違いする予告だからね!?!??いっぺん見てもらえますか!?!??シャンタルと司祭のガラス戸越しの躊躇いとか「聖と俗のはざまで苦悩する若き司祭」とか「あなたは悪魔よ」とかミスリードにもほどがあるからよ!!!!


https://youtu.be/cHS00pIKhSs


あとこの予告が問題なのは、核心の領主夫人との信仰問答の重要性というか、そのシーンの存在の欠片も感じられないところでして………。うまく切り取ればネタバレにならないでしょうに。大筋が全く分からないし雰囲気で繋げすぎだよね。予告失格です。


この映画で最も大事なのはやはり領主夫人とのあの闘いかつ語らいなんですよね。観客はあのバチバチ感とその後の静かな心の平安は絶対に2人にしか分からないことを確信してその後のシーンを観ることになるから、後から「シャンタルが見てたんだ」と言われても「それが何か?」としか思えないんだよね。あの時確かに領主夫人は息子の死を手放してこの世で望みうる神の平安を得ることができたんですよね。人間って、自分の死後に天の御国で亡くなった愛する人に会えることを目標にして俗世を生きてはいけないんですよね。たとえそれが広義の「神の御国を望む」ことの中に入るとしてもね。ブレッソンからのその後の司祭への仕打ち、本当に冷酷ですね。司祭と夫人とのあの時間が徹底的に他人には理解されないものとして描いているので。あまつさえ領主夫人との性的な関係を疑われさえするし。


司祭と両者夫人とのシーンだけでなく、映画全体で「他人を救うということは何か?」「神の救いに導くということはどういうことか?」ということを多少なりとも示唆している。そして司祭は、自分が持っていないものすら与えることができた。むしろ持っていないからこそ与えることができた。空っぽな手の奇蹟だ。